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シャクティの力を社会に

ナンダナ・レディ

2002年6月16日(日) 神戸産業振興センターにて講演




この美しい神戸の街に招いてくださった辻本さんに感謝いたします。また、マユールさんが通訳してくださることにも感謝いたします。通訳なしでは、私の話は何もお伝えすることができないのですから。

皆様方と本日私の考えを共有してできるだけ多くを学ぼうと、畏敬の念をもってここへやってまいりました。本日の演題は「シャクティの力を社会に」です。シャクティは、梵語(サンスクリット語)で女性の力を表します。女性のエネルギー、守護者、愛する者です。新しい命を育む者です。正当、正義、しかし誤ったことには罰を与えます。シャクティは、世界のバランスを保つ者、生命の永続を保証するものです。人間性を創造し、愛、平和、幸福、繁栄などの人間の基本的な価値を生み出します。

インドでは、シャクティは抑圧されてきました。見捨てられ、無視されてきたのです。世界中のほとんどでもそうです。私達は病み、悩んだ世界に住んでいるのです。世界中で、蛮行、暴力やテロリズムが横行しています。「家族」という概念が急速に変わり、ほとんど認識されなくなっています。自殺が増加し、女性は奴隷のように虐げられ、子供達はマクロ経済学から見ると軽視されています。名もない病気が私達の母なる地球を攻撃し、地球は苦痛にあえいでいます。

私の国インドでは、昨年だけでも、過去20年間を合わせたよりも多くの殺害、蛮行を目撃しました。今年はまた、残念な事が起きています。インドの国が、少数の原理主義者たちに無理な要求を押し付けられてしまい、ヒンドゥー寺院の方が、食料、水、住まい、教育、雇用よりも重要だとされてしまったのです。人間の生活そのものより重要だとされたのです。

非暴力運動の父であるマハトマ・ガンジーの出生地である、インドのグジャラート州では、お互いに殺し合う事件が起きています。違う宗教を持つと公言するだけで、家族中が生きたまま焼かれたり、子供達は惨殺され、女性達は暴行されています。インドは炎の中にあり、大衆は静かに傍観するのみです。このような事件は、たまたま起こるような出来事ではなく、人々の心理や政府の反映であり、国家の健全さを真剣に問う問題です。

ある平和を願う人が書いた言葉があります。

あなたの家の火が燃えさかる部屋の
隣の部屋で、
あなたは眠れますか?

あなたの家の死体が横たわる部屋の
隣の部屋で、
あなたは歌を歌えますか?

あなたの家の死体が横たわる部屋の
隣の部屋で、
あなたは歌を歌えますか?

あなたの家の腐った死体の山がある部屋の
隣の部屋で、
あなたはお祈りできますか?

もし、はいと答えられるなら
私は何も言うことはありません
何もあなたに言うことはありません


「命乞いをする妊娠8ヶ月の女性について、何か言う事がありますか?暴力者におなかを切られ胎児を引き出され、彼女の目の前で惨殺されたのです。」

「洪水で襲われた家に、高圧電力を流され、感電死させられた19人の家族について、何か言う事がありますか?」

「6歳の少年が、母親や6人の兄弟を目の前で乱打されて殺されたようすを話した。」

グジャラート州で起きた事は暴動ではありませんが、テロリストが攻撃してから、組織的に計画された皆殺しがおきました。これは大勢の怒りが爆発するような、自然に起こるようなものではありませんでした。政府がただの観客ではなく、暴力の加害者であるところに起こる、念入りに計画されたプログラムだったのです。

それでも、大きな抗議はありませんでした。インドの人々は、怒りの声を上げなかった・・・不思議なことに我々は民主主義国家の国民なのです。人々の多くは若い頃から、参加しないように、社会構造に疑問をもたないように、教育されていたのです。インドの社会文化のしくみや、教育、政治構造が、家庭でも、職場でも、州でも、人々に統治の制度の参加をうながすようなものではなかったのです。シャクティ、女性の力が沈黙させられていたのです。

だからこそ、私は重い心で神戸にやってきました。芭蕉が俳句に詠んでいるように。

秋深き隣は何をする人ぞ



アジア亜大陸で、日本は私達の手本となってきました。見習うべきお手本でした。経済的奇跡を起したのです。日の出づる国、美しい、繁栄の国です。資源を持たないが、第二次世界大戦の瓦礫の中からたちあがり世界のトップに昇った国。何度も国を再建してきた国。が、今、日本は息を止め、社交嫌いで崩壊を待っているかのようです。

この美しくレトロな街神戸で、1997年、14歳の少年が義務教育と、それを生み出した社会に報復を表す為に、11歳の少年を殺害しました。

くりかえしますが、これはたまたま起きた事件ではありません。日本のあちこちで、このように抑圧的な社会機構に反発する、子供達の暴力的な事件がいくつも起きているのです。

私が述べてきましたことは、日本だけではなく、何十年も前のアメリカでの現象で、ヨーロッパに広がり、今アジアに来ているのです。けれども、子供達が暴力を示す時、私達は高い関心を払わなければなりません。私達の文明の根本を問題が揺るがしているからです。

私達は、自分達にとってあまりにもかけ離れた西洋の生活様式や価値観を取り入れてしまったのでは? 単に利益を追うあまりに、自分達の価値観や原理を失ってしまったのでは? いわゆる「先進国」という証明を得ようとするうちに、自分達の魂を失ってしまったのでは?

日本では、
  • 問題で、その数は増え続けています。
  • 日本は、子供の自殺が最も多い国です。
  • 「アップルツリー」のような私設教育施設に通っている、学校に行きたがらない子供の率が高いです。
  • 家族が生命保険金を受け取られるように、ビジネスマンの自殺が増えています。
  • ティーンエイジャーの妊娠が増えています。
  • 子供達が父親に会う機会が少なくなっています。
  • 女性は黙々と仕事をする、服従的な奉仕者のような影の役割に追いやられています。
  • 今日のポップ歌手の歌う事は、日本の現実を表しておらず、逃避的な幻想を提供しています。ただ、浜崎あゆみは自分の意志を歌詞に表している点で、例外かもしれません。

これらのことは、12年近く続いている不況が影響しているかもしれません。今や日経株価が18年間低迷し、結果、高い失業率を記録し、終身雇用制が主流の社会ながら定職率は低く、一時的な不景気というより事態はもっと深刻かもしれません。



1973年に、E.F.シュマッハは「小さな事は美しい」と言う本の序章で述べています。。
「めざましい近代科学技術の進歩により、人間は自然を損傷する生産システムと、人間自身を損傷する形態の社会をつくりあげた。限りなく増大する富がありさえすれば、他の事は全て丸くおさまると考えられてしまっている。お金が万能だと思われているのだ。どう好意的に見たとしても、近代社会の最優先目標は、生産物の開発と健康を得ることであり、その他の目標は二位に追いやられてしまっている。教育も、物質的な成果を導かない限り、価値が少ないと思われている。」

我々は、経済的価値のために過激な競争をするうち、我々の人生の質に関わる原理や人間的価値を犠牲にしてきました。自分たちを受身で、歴史の中の、経済の歯車の1つに過ぎない存在に、価値を下げてしまいました。あらゆる決定に自分自身が決定権を持つことを忘れてしまいました。

この、主流となった開発モデルでは、
  • 自然を搾取している
  • あらゆる層で不均衡を生じている
  • あらゆる種類の階層化を生じている・・・自然、人々、文化、性別など
  • 社会が、硬直した有害な分業化、専門化が進み、全体論的に、又、地球環境的に現象を見ることが難しくなっている。
  • 文化と自然、精神と物事、理性と感情、客観と主観など、二元化され、層を作っている。

このような開発モデルでは、もっと高い価値をもつはずの倫理、道徳、正義など、シャクティのあらゆる価値が、個人や宗教的な生活の場面で忘れられ、価値が低いとみなされてしまっています。外向きの生活は、ひたすらに利益を力とを追い求める事になってしまっています。

ジェレミー・シーブルックは、「地球に問う」という本の序文に、次のように書いています。
「世界の『3分の2』の国々---第3世界と誤って呼ばれている、人類の3分の2が住む国々---で、人々は資源に頼って未だ離れられずに暮らしている。昔から明白だったにもかかわらず、今やっと西洋の人々が気づき始めた---自然は原料を無限に与えてくれるものでもなく、産業主義の有害な副産物を無限に吸収してくれるものでもないことを。」

「ほとんどの『3分の2の世界』では、植民地主義の到来まで、その地で社会を完結して維持できる機構をもっていた。西側諸国の新植民地「開発」が広がるとともに略奪は続いた。今再び、その地で維持できるしくみを取り戻す実践こそ、人類が直面している最も緊急の課題である。」

「西側諸国が今のままである限り、有害な開発の形態から『3分の2の世界』を開放するのは不可能である。危険の迫る地域に住むことや貧困を選択する自由を、西側諸国が説教するのは偽善である。」

又、マハトマ・ガンジーは言いました。「母なる地球は、全ての人々が必要な物を持っているが、全ての人々の欲を満たす物は持っていない。」あるジャーナリストが、「インドでイギリスと同じ水準での生活が可能ですか?」と尋ねた時、ガンジーは次のように答えました。「その生活水準を得るために、イギリスのような小さな国が、世界の半分を支配しなければなりませんでした。インドのような大きな国なら、搾取する為の地域が地球いくつ分必要でしょうか?」と。

何が問題なのでしょうか?なぜこのような間違った方向へ進んでしまったのでしょうか?アジアで、私たちは悩んでいます。日本も悩んでいます。自信を失っています。が、これは進むべき道ではありません。手遅れにならないうちに、この傾向を認識して、分析し、理解しなければなりません。ここの過ちから学び、新しい国を再生しなければなりません。新しいインドを。新しい日本を。同じ過ちを二度と再び犯さないよう、アジアの私たちがこの努力のために手をつながなければなりません。



私の母、スネハラタ・レディは、亡くなる少し前に戯曲を書きました。

昔、ふたりの王がいました。インドのラーマと、スリランカのラバナです。ラーマは、母なる地球の娘、シータと結婚しました。シータは、正直、正当、忠実を具現化した、勇敢で美しい女性でした。ラーマは、自分の国を繁栄させる事、良い王様であることに全身全霊を捧げていました。一方ラバナは、シータを見て気に入り、自分の国へ連れ帰ってしまいました。横暴なことはせず、美しい宮殿の庭に住まわせました。ラーマはスリランカに攻め入り、シータを連れ戻します。しかし何人かの者が、他国に長い間いたシータの貞操に疑いをもち、ラーマは自分が良い王であることを見せたかったので、火の審判に同意しました。シータは火の中を歩き、無傷で出てきました。けれどもシータは心の中ではひどく傷つき、夫に失望してしまいました。裏切られた気持ちになったのです。母なる地球に祈り、自分をラバナのもとへ帰してくれるよう願い出ました。そして夫の下を去りました。

ヒンドゥーの伝統的な神話では、ラーマは妻より自分の国を大切に考えたので英雄とされていて、ラバナは自分の国より女性への思いを大切にしたので悪者とされています。長年、インドでは家長制度社会の中でこの話がつくりあげられ、ラーマが、人々の意思を尊重し、女性を従属させ(この場合は自身の妻に恥をかかせて)、自分を証明した男らしい王と讃えられてきました。しかし、母の劇の中では、ラバナが英雄で、ラーマではありません。母は、ラバナを、人を愛する事ができ、人間的に優れていると感じました。ラーマが国のためにシータを犠牲にしたのに反して、ラバナは、シータのためには国の危機の方を選んだのです。

今日のインドは、シータではなく、ラーマの道を進んでいます。政治的、経済的領域において、他の課題よりも優先するただひとつの目標を追う為に、国が右派や地方自治主義の温床になり果てています。独立後50年経つものの、国民の正義、自由、平等を守ろうと願う社会主義者、非宗教的な民主共和政体は失敗に終わっています。

ここに学ぶべきものがあります。他の何よりも優先して、愛する事を学ばなければなりません。そして、あらゆる価値の中でバランスを保つ事、異議を唱える権利を行使することを学ばなければなりません。シャクティの力をよみがえらせなければなりません。

私たちの世界は、何世紀もの間宗教に支配され、その後政治的イデオロギーに、そして今は経済に支配されています。これらの要素のどれもが、それぞれに過度であるとき、人類に災いをもたらす事をこれまでの歴史が証明しています。バランスが無かったのです。宗教も、イデオロギーも、お金も、幸せは買えなかったのです。永遠の正義、調和、美しさ、平和を私たちにもたらす事はなかったのです。

何世紀もかけて、人々は進行的に人口の50%を占める女性を抑圧する事に成功してきました。女性は、自分の人生に意味を持たされず、自分で人生をコントロールする事もできないよう、退けられていました。男性が社会を支配し、男性的価値を精力的に追求する結果、人生の質を低下させてしまいました。

ラーマとシータの正反対の受け取り方や、陰・陽は、自然と私たちとの関係に基づいています。自然のサイクルと私たちがどれほど近いか遠いか、ということです。おもしろいことに、近いほど、パートナーシップ型社会になるようでなのです。階層のない、男、女、子供たちが皆、積極的に、見識広く参加する、本来のパートナーシップ社会です。他方は、明らかに、階層と支配に基づいた社会モデルです。お尋ねしたいのは、中央集権型を望むのか、分散型を望むのかということです。支配したいのか、パートナーシップを尊重するのか、ということです。



タマラッキーというワラヒ川のほとりの小さな村の話をしたいと思います。ここの村人や子供達は、籠を編んだり、きのこや蜂蜜を取って生活しています。原材料は全て居住している地区の森林から取ってきます。住民の役割は、個々の能力によって決まります。女性が土地、お金、物資の管理をして、男性は力仕事をします。わたしたちが、その役割分担はどうして決めたのか?とたずねると、男性は管理には向いていないから、との返事でした。女性は育む、育てるという本性をもっていて、本能的に守るという意志を持ち、男性は、もっと攻撃的で短気だと説明してくれました。男性の本能は力を他に示すことで、破壊することにためらいがないので、その力をまき割りや畑を耕すことに有益に用いるのだというのです。

私は1970年代半ばにCWC(Concerned for Working Children) (ウェブサイト: www.workingchild.org)というNPOを創設しました。私達は、見捨てられた子供達と活動しており、そのような子供達に、権利を認識させ、社会参加するよう援助しています。子供達には、私達大人から引き継いで社会を作っていく権利や、子供達に関わることについての決定に全て参加する権利を持っていると、私達は信じています。

私達の国では、多数の戦いが繰り広げられています。働く子供達や、恵まれない人々、女性、難民などによる、長い戦いです。それぞれの戦いでの問題は、自分の人生や資源を自分でコントロールしたい、社会文化的、経済的、政治的な構造変革のために、自分の声や意見を政治的な場に届ける必要がある、ということで共通しています。究極のところ、社会を再編していく力と能力、開発モデルの存在なのです。

私が一緒に活動した、ウッチェンガンマという14歳になったばかりの女の子の話をしたいと思います。私の出身のカルナタカ州の北の方の、干ばつにたびたびみまわれる、貧しい大変封建的な村に住んでいます。ビーマ・サンガという、働く子供達の、働く子供達のための、働く子供達による会員25000人の組織の代表で、また、マッカラ・パンチャヤットという子供達による政府の代表も務めています。この地域の子供達には、女子は10歳、男子は13歳で結婚させられるという問題があり、これに取り組むことになりました。

最近ウッチェンガンマが会議を終えて村に帰ると、21歳の男性との結婚を、両親が決めたことを知りました。彼女はすぐに警察、地方自治体、マッカラ・ミトラ(「子供たちの友」の意)という子供の為のオンブズマン組織へ訴えました。それから、働く子供の組合と子供評議会へ会議を招集して、個人の戦いで終わらせずに子供の早婚に反対する活動へと拡大させました。

このキャンペーンは、対決的なものではなく、理由を指し示して、相手を説得するようなものでした。子供達は、家々を一軒ずつ訪問し、子供達が悩みを抱えることになった結果の事例を挙げながら、この問題について話をして回りました。早婚に反対する宣言書に署名を頼むことで、家族の援助を得ることになりました。法律に違反していることで、教師、政治家、地域のレーダーたちは署名をしないわけにはいきませんでした。子供達はとうとう、全ての政党の支持する公的会議を招集することになり、この会議で、全ての村が、子供に早婚させないという誓約書を交わしました。

ウッチェンガンマとその仲間達は、この戦いを平和的に成功させたのです。全ての村の態度を変えたのです。故習にとらわれた文化と伝統が人権を損なうことを認めさせ、除外したのです。子供達の力で、目を見張る変革が行なわれたのです。

今や何千もの子供達が、村での統治に参加しています。伝統的、封建的、家長制度的で性差別に無神経だった大人たちが、子供達の権利を擁護するようになったのです。その大人たちの多くは、子供の権利会議についても何も知りませんでした。それでも、この活動が自治体全体にとって良い結果になることを見るうちに、そのような大人も、積極的、平等な参加の価値を認めるようになったのです。政治体制のなんと言う変貌でしょう!

私達は、家父長制度社会に生活しています。少数のエリートが、利権を守る為に多数を抑圧してコントロールする社会です。弱者や貧しい者たちを無用のものとして扱い、機構を利用する政治体制です。社会的、経済的、政治的な三角形の底辺に多数グループの人々を置いておく為に、州政治体制、司法組織、市民社会の一部が皆で結託しています---そして子供たちは、発揮できる場所もなく、声も出せず、無力でどうすることもできないでいるのです。

ウッチェンガンマのような事例があって、CWCは、この問題を根底から解決する為には、子供たちの「政治的な場所」を設けることだと認識しました。私達の役割は、子供たちの生活と子供たちの住む地域社会の質を高めるための機構と企画の変革のために、子供たちの「政治的な場所」を獲得させ、効果的に使用させることだと考えています。そのためには、子供たちの活動を集約させ、情報を駆使させ、人間的、物理的資源を活用させる必要があります。私達の計画は、「マッカラ・トゥファン」(「子供たちの台風」の意)と呼ばれ、子供たちの「政治的な場所」を正式なものとする、根本的な変革を可能にしました。

人々の活動も、努力もまだ充分ではありません。英雄的指導者も必要でしょう。また、子供たちの関わっている困難もまだ充分認識されていません。けれども子供たちは、愛し、希望を持ち、夢を見る方法を知っています。大人たちのほとんどが忘れてしまったそれらの方法を。



辻本さんのお父様は、小さなたんぼを吹田市に持っておられて、2,3年前まで高層ビルに囲まれたそのたんぼで稲を育てていました。金銭的価値ではなく、この平和な土地を愛しておられたからそうされていたのです。

このお父様の価値観は長年かけて息子の辻本さんに引き継がれ、私にはそれがよく見て取れます。日辻本さんの家庭は温かい愛に満ちていて、辻本さんと年枝さんは真の平等なパートナーだと思います。お二人の双子の娘さんはとても違ったものを持っておられ、他の日本の子供たちが直面しなければならないようなプレッシャーからよく守られていると感じます。過激な競争を排除されて、笑いと音楽と愛と目的のある、穏やかな生活をされています。他の生き方を探している多くの若者にとって、天国のようです。今日、日本の真中で、このような生活を実現するのは大変難しいことではないでしょうか?



九州の小さな温泉町、湯布院の人々は、面白い試みをはじめました。湯布院独自の通貨、[yufu]を導入したのです。[yufu]を使ってタクシーに乗ったり、食事をしたり、クリーニングを頼んだり、また、野菜を買ったりもできます。これは、物々交換の時代にさかのぼるやり方で、明らかに、物欲のためでなく必要なものを手に入れるという生活に基づいた方法です。夕食のために自分の畑でできた野菜を収穫したり、近所の人が打った麺を入れてみそ汁を作ったり、好みに合わせて作られた新鮮な豆腐を豆腐屋が玄関先まで売りに来てくれたりした、生活の仕方です。重要なことは、[yufu]が、信頼に基づいて成り立っており、地域社会の結束を強くし、社会の潤滑の働きをしていることです。湯布院の人々や、辻本さんのような家庭が、日本再生の種をまいているのではないでしょうか。「小さなことは美しい」の考えです。陰と陽のバランスを再発見し、もっと資源の基盤に近づいた、もっとしっかりした生活に戻していかなければならないと思います。



アメリカの詩人、エッセイスト、小説家であり、精力的な近代農業の批判家でもあり、ケンタッキーで昔ながらのやり方で畑を耕作したりもしているウェンデル・ベリーがこう言いました。
「最愛の土地---特別な土地、特別愛すべき土地---について口に出してはじめて、その土地をどう利用するかという疑問が出てくるのだ。愛すべき私たちのいる土地を私たちは理解している、今利用している方法が適切でないからだとわかっているから、疑問が湧いてくるのだ。なぜ適切でないのか、それは、私達が持っていたそんな地方の文化、経済は伸びることなく消滅してしまったからだ。」

私達は確実に、自然との近い関係を破壊し、自然のサイクルの中の不可欠な一部という位置も失っていってます。また、どのように自然を愛するかということも忘れています。私達に限りなく恵みを与えてくれる自然に対して、優しい気持ちや敬する気持ちを示す代わりに、自然から奪い取り、自然を傷つける道を進み、その結果、私たち自身の生活の質そのものにも、同じ行為をしてしまっています。

この傾向を方向転換することは可能でしょうか?窃取の論理の代わりに、私達の信じる正しいものを拠り所として生きていくことは不可能でしょうか?次のようなウェンデルの法則にのっとって生活することはできないのでしょうか?---「利用の質が上がると、利用する為の作業の規模は縮小し、器具は簡素になり、理論や技術は複雑になる。我々には信じがたい難解な法則である、なぜなら我々は長い間、これと反対の方法を当然のことと思っていたからだ。今なお経験がそう思わせているし、おきてに従わないことへの罰は厳しいと思っているからだ。」

支配的な社会モデルを廃し、パートナーシップ・モデルにのっとった新しい社会秩序を展開することはできるでしょうか?リーアン・アイズラーの著書「聖杯と剣」などに、かつて存在した、今日かすかな光を見る、そのような社会についての論争が書かれています。



アジア全体が、度合いは違うにしろ、そのような危機に直面しています。わたしたちは、本当には自然の一部ではない、開発と支配のモデルを採用してきました。女性の神シャクティと男性の神シバとのバランスが同調しないモデルです。私達は階層化を追求し、全体像を見ず、男性・女性の価値を小さな箱に区分してしまいました。陰と陽、女性と男性のバランスを失ってきました。私達は、ただ女性を経済界に進出させれば問題が解決するものと思い、スリランカのチャンドリカ・バンドラナイキ・クマーラトゥンガ大統領や、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や、インドのインディラ・ガンジー首相のような、男性が敷いたルールで役割を遂行するリーダーを生み出してきました。幸運にも彼女たちはうまく遂行できたのですが、シャクティの女性の力を証明することはありませんでした。

私達ひとりひとりは、男性の力と女性の力の両方を持っています。陰と陽、シャクティとシバ、柔と剛、積極的と養育的、対抗的と平和的、短気と忍耐強さ、競争的と参加的、攻撃的と守備的、寛大と偏狭、怒りと優しさのそれぞれ両方を。

これらの特性は、バランスを保って共に用いれば、必ずしもマイナス要因ではありません。これらが分離したりどちらかに偏ることにより、有害で破壊的な結果をもたらすのです。このバランスこそ、私達が達成しなければならない課題であり、そのためには、授かったそれぞれの性の力を、他の性と同等に分かちあう必要があるのです。女性を政治、経済、宗教、社会文化の分野に引き出す必要があります。女性の価値を維持しながら、女性に権限を与える必要があるのです。

私達ひとりひとりの内にある女性を育て、開花させる必要があります。それが私達の唯一の望みでもあります。そのためには、
1) 態度の変化
2) 社会での性の構造改革
3) 型にはめた物の見方のの廃止
4) 女性、子女に参加する権限を与え、権利を持っていることを認識させる。
5) 女性に発言する場を組織させ、意見を持たせる。

又、大人たちへの質疑や新しいモデルの要求を挙げる権限を持たせる必要もあります。子供たちが大人たちを新しい世界へ導き、大人たちに道を指し示すことができるようにする必要もあります。

日本のシャクティを発信し、すべての政治機関で、家庭で、地域社会で、ビジネス、教育、地方自治体のあらゆる場でシャクティの力を浸透させていただきたいと思います。

適切な開発モデルに基づいて、日本を再建する必要があります。私達もインドを再建する必要があります。日本は限りない力、美しさ、美的感覚、自律力、困難にくじけない力、厳格さを持っています。アジアにとっての指標であることをもう一度宣言し、協力して新しい道を探る必要があります。西洋諸国の方法をを鵜呑みにするのではなく、前向きな、アジアの価値観と伝統に基づいた、アジアの道を。

最後に一茶の句を紹介してお話を終わりたいと思います。

雪とけて村いっぱいの子どもかな
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